母の人生を振り返る①
母は現在、終末期で病院に入院しています。
もう、先は長くないだろうと言われているので、家族は覚悟を決めて静かにその日を待っています。
コロナが5類に移行したおかげで、先日久しぶりに対面での面会ができました。
身体はすっかり痩せ細ってしまいましたが、かろうじて目が開いて動いていました。会話はできないのですが、一瞬「あー」と出した声を聞くことはできました。
私の母にとって、この65年間はどんな人生だったのだろうか?
山間部で生まれ育ったので、高校は物理的に一つしか選択肢がなかったと思われる。
短大を出て、就職して、父と出会って20代前半で結婚して寿退社。
専業主婦になって、子供を2人産んで、たまにパートをしながら家事育児にリソースの多くを注ぎ込む日々。
父があまり外食が好きではなく、ファーストフードなんてもってのほかという感じだったので、父が飲み会の日の夕食や父がいない休日の時だけは、カップラーメンやファーストフードにありつけるのが子供ながらに楽しみだった😊
今思うと、専業主婦だから外食に頼らずに毎食手作りすべきという価値観にとらわれていたような気もする。もう話せないので、真実は闇の中だけど。
私もなかなかに扱いづらい子供だった(自覚はある)ので、
「あんた達(子供)を置いて家を出て行きたいと思うことだってあるのよ。でもそんなことするわけにいかないでしょ。」
私が小学生の時だったかな?そんな愚痴をたまに言われた記憶が🥲
性格の悪い?父の発言にも大きくため息をついて、
「はーーーー。疲れる…。」とこぼす時も多かった。
父の実姉は気さくでよい人だったのだがとにかくマシンガントークな方だったので、一度電話(しかも固定電話📞なので身動き取れず)で捕まると1〜2時間は話し相手になっていて、その後に父に愚痴っていたのも覚えてる。
義理の姉(父の兄の嫁)がこれまたものすごく性根の悪い人で、父の実家に行く度に嫌味を言われたりしていて、すごく辛そうだった…😭
楽しそうにしていたのは、ママさんバレー🏐をやっていた時や、テニススクール🎾の友達とテニスをしたり観に行ったり、TVでスポーツを観ている時だった。
たまに飲み会に行って、飲みすぎてトイレでひっくり返っていたのが子供の目には衝撃的過ぎて、今でも記憶に残ってる😂
家庭の中の窮屈な思いを忘れられるひと時だったんだろうなー。
私が大学生になって、やっと子育てから解放され始めた頃に、今度は義母の介護が始まる。
幸いなことに高齢で耳も遠くなってはいたものの、食事やトイレは亡くなるまで自分でできる人だったので、見守りが中心だったみたいだけど、性根の悪い義理の姉のいる家に週に何度も通うのはそれだけで心労が大きかったのではないか。
義母が亡くなった頃に現れた、母の変化
正確には数年前から薄々勘付いてはいたのだけど、義母が亡くなった直後に明らかに、急に症状が顕著になった。
診断は若年性アルツハイマーだった。50代前半だった。
続きはまた書きます。